ベトナムの歴史・諸王朝時代

【ベトナムの先史文化】
ベトナム最古の痕跡は、北部ベトナムのタインホア省のド山(標高158m)で発見された、約30万年前の前期旧石器時代の石器です。 紀元前1万年前から前5千年の間のホアビン文化と呼ばれるころになると、現在と同じ気候、地理的環境になっていたようです。ベトナムの考古学者は、この文化内で原始農業の発生、土器の出現を考えているそうです。 前8千年から前6千年頃の前期新石器時代にはバクソン文化となります。次に北部ベトナムで発見された前4千年頃のタブット文化、クィンヴァン文化へと続き、以前の居住地である山地の洞窟や岩陰を離れ、広い土地に下りてきました。タブット人は、狩猟、漁労、農業に従事していたと考えられています。 紀元前3千年頃の後期新石器時代の文化としては、バウチョ文化、ハロン文化などがあり、 農耕文化とともに漁労文化が発展したと考えられています。

・青銅器文化
青銅器文化には、フングェン・ドウダウ・ゴームンの3文化があります。これらの遺跡 は、北部ベトナムの紅河(ホン川)流域に分布し、紀元前2千年から紀元前1千年の間と考えられています。この段階は、農耕が主体で、青銅器が農業生産に使用され出し、社会の階層 文化をみた時代であったと言われています。 東南アジア地域から出土する青銅器中の白眉、銅鼓(どうこ、青銅器太鼓)を持つの がドンソン文化です。この文化の名はそれらが出土した地名からつけられています。この文 化は青銅器文化と思われていましたが、この遺跡から鉄器も出土しており、鉄器時代に入る ものと考えられています。前8世紀から後1〜2世紀頃であるドンソン社会は、農耕生活 を行い、首長が共同体の成員を支配する階級社会であったと言われています。また、ベトナムの史書によ ると、紀元前1千年の中頃、紅河沿いに雄王(フンヴオン)と呼ばれる王家が文朗国(ヴァ ンラン)と呼ばれる国家を作っていたといわれています。ベトナム人学者は、このドンソン文化と それ以前の青銅器文化を伝説の雄王、文朗国と関係があるのではないかと考えています。文朗国は、紀元前257年に安陽王(アンズオンヴォン) によって滅ぼされ、かわって甌駱(アウラック)国が建設されたとされています。

【中国支配の時代(前期)】
もともと中国は雲南から海に出る最短ルートとして、紅河の支配を望んでいました。つま り、この紅河デルタは西方との交易の重要な拠点とないっていたわけです。 秦は、始皇帝の死後、ベトナムへの支配力が弱まりつつありました。秦代の末期に、南海  部(中国が辺境支配のために置いた地方行政区)の支配者であった趙佗が独立し、今の 中国広州を首都として南越国を建国しました。南越は紀元前208年に南の甌駱を征服しました が、秦を継いで中国の統一王朝となった漢が紀元前111年に南越国を滅ぼしたことに により、ベトナムも漢の支配化に入り、これ以後約千年間、中国の支配を受けることになりました。 またこの頃中部ではチャンバが国を作り(林邑・占城)、独立国となっていました。 さらに南部には、クメール族の扶南という国が存在していました。 ベトナムを支配した漢は官吏を送りこみ、住民から厳しい搾取を行ったため、逆に住 民に強く民族意識を目覚めさせ、たびたび反抗をうけるようになりました。中国の支配期間 には40〜44年の徴(チュン)姉妹の反乱、248年のハンチエウの反乱、544年 の季賁の反乱、791年の馮興の反乱と4回の大きな反乱が起きましたが、どれも数年しか 持続できず、中国支配に甘んじていました。

・扶南王国の盛衰
メコン川下流域に1世紀頃建国した王朝です。伝説では次のように建国について伝 えられています。扶南はもともと柳場という王女が統治していました。あるときインドの東部 にあった模趺の国の混慎という男が商船に乗ってこの地を訪れ、混慎は柳場と結婚し この国の王となりました。したがって扶南ではインド文化が色濃く反映され、言葉もサンス クリット語が使用されヒンドゥー教が信仰されました。また高い文化的水準を有していました。 扶南は中東・西洋と中国を結ぶ中継貿易の重要地となり、海のシルクロードの中心地と なっていったのです。 しかし、その繁栄のため、かえって征服される危険性をはらんでいました。そして中国の 文化の分裂により貿易収入は減り始め、徐々に勢力は弱まり、550年頃にクメール族 の真臘に滅ぼされてしまいました。

・4世紀からのチャンバ
チャンバは192年の今のフエ地方に興り、347年に范文王が王宮の建築や軍事機 構について中国の様式を取り入れたが、王の孫のバドラヴァルマン王はヒンドゥー教の シヴァ神を崇拝し、チャム芸術の代表となるミーソン寺院を建立しました。この国は中国と バクダッドの中間に位置しているため、通商貿易の拠点となり(いわゆる海のシルクロ −ド)経済的にも大いに繁栄しました。 8世紀半ばには、ニャチャン、ファンランと都を遷し、安南都護府の衰退に伴って、 中部ドンジュオンに再遷都しましたが、北部ベトナムの圧迫に遭い、南部に進出しメコン デルタを占領し生き長らえましたが、1471年にベトナム軍に敗退し滅亡してしまいました。

【ベトナムの独立】
907年に唐が滅ぶと、広洲に地方政権の南漢国が成立し、ベトナムはこの南漢に 支配されましたが、938年に呉権が南漢の軍を紅河デルタの入り口バクダン江で破り、 939年にコーロアを都とし、自ら王となり、長い中国支配からベトナムを開放しました。 しかし呉朝は965年に滅亡し、内部紛争が起こりました。その後、丁朝が23年間(96 8〜980年)、さらに前黎朝と続いたが、この前黎朝もわずか30年間(980〜10 09年)しか持続できず、短命の王朝が続きました。しかしこの前黎朝の始祖黎桓が南部チ ャンバを破ったため、この時からチャンバはベトナムに朝貢するようになり、ある意味 でベトナムの統一がなりました。

【季朝】
1010年に季コウアンが昇龍(タンロン、今のハノイ)に都を定め、国号を大越と する季朝を興した。この季朝がベトナム初めての長期王朝となったのです。季朝は宋 代の中国のシステムをいろいろ取り入れて、国家を充実させました。1070年には現在、 ハノイの名所となっている文廟(孔子廟)を設け、1075年には科挙の制度を導入し ました。また仏教を導入し、それに伴い文学や芸術も普及しました。現在ホー・チ・ミン廟の隣 にある一柱寺(延祐寺)は、季朝期の創建です。 またこの時代にチャンバへ三度遠征し、その一部を奪い取りました。また、南洋諸国とも交 易し繁栄しましたが、やがて農民への圧政に起因する反乱の結果、政権を陳一族に譲りました。

【陳朝】
1225年に陳氏は政権を獲得し、都を昇龍に定め、制度もほぼ季朝を踏襲しました。 文学が栄え、国有の文字、いわゆるチューノム(字喃)を作り、中国漢字から独立して自国の文字を持つようになりました。農業が発達しただけでなく、商工業も発達し、貨幣 経済が浸透し始めました。 特筆すべきことは、元の軍隊をゲリラ戦で撃破したことである。しかし、元は撃退し たものの、このため国家が疲弊し、さらに飢餓が起こり、山岳民族の反乱などで国家が 乱れ、地方官が農民をしいたげたために反乱が起こり、1400年に黎氏(後の胡氏(ホー氏)) に政権を奪われ、陳朝も滅んでしまいました。 しかし陳朝を支持していた人々はホー氏に逆らい内乱状態になりました。この時、機を見 るなり、中国(明)が侵入し、胡氏王朝を滅ぼしてしまいました。

【中国支配の時代(後半)】
胡氏を滅ぼした明は1414年から27年まで、ベトナムを支配し、ベトナム固有の 言語や風俗などを排斥しました。それに対し、人民は各地で蜂起し、1418年に黎利(レロイ)が決起し ました。

【動乱の時代】
黎利(レロイ)は人民の支持を得て1428年にベトナムを開放しました。これが後黎期 です。行政・軍事の制度を充実し農業を奨励しました。また法律上、女性と男性が家庭内 では同等の権利を有しました。チャンパを完全に支配し、ベトナムを統一しました。しかし無 能な王が続き、諸侯の抗争がおき、莫登庸(マツクダンズン)が1527年に帝位を奪 いましたが、南北に分裂し、北部は鄭氏が、南部は阮氏が実権を握り、約200年にわって 対立しました。 ここでいう南部とは現在のフエ地方のことだから、実際は中部地区をさすことになります。 南部の阮氏は南進を続け、コーチシナを獲得し、さらにカンボジアの一部を併合しました。 この頃、宣教師アレキサンドル・ド・ロードがベトナム語をローマ字で綴り、QUOC NGU (国語)の起源となりました。 1717年、南部の阮氏の末期に西山(タイソン)の3兄弟が圧政・物価高騰の不満 から蜂起し、中部、続いてコーチシナを獲得、1777年に阮氏を追放し、さらに北上 して鄭氏を討ち、86年昇龍に入城し南北を統一しましたが、やがて一族の対立から、阮一 族の阮映の巻き返しを許してしまいました。これが西山党の乱です。

【阮朝とフランスの進出】
阮映は1788年に中部ベトナムを奪回し、大砲と海軍力で西山党を圧倒し、フエを 1801年に陥落させました。翌年には昇龍に入城し、ベトナムの統一を回復しましたが、この際 フランスの志願兵と宣教師の助力を仰いだため、この後のフランスの進出を許すことと なりました。彼は皇帝となり、嘉隆(ザーロン)と名乗りました。現在のベトナム領を統治し、 さらにカンボジアを保護下において、首都をフエに定めた。これが阮朝です。 次の明命(ミンマン)帝は、カトリックの布教や西欧諸国を排絶する方向を選んだの で、フランスは1858年にダナン(ツーラン)に砲撃を加え閉国を迫りました。その結果 、1862年6月にフランスと協定を結び、メコンデルタの一部の割譲とカトリックの布 教を認めましたが、地方官や農民の抵抗にあったフランスは、全土の直接支配をめざして、メ コンデルタ全域を併合しました。1882年にはハノイを占領し、フエ政府の形骸化が始まりました。 この結果、ベトナムはフランスの保護下に置かれ、実質的に植民地化されてしまいました。
  
・フランス支配時の地方体制
ベトナム住民の敵意と反抗のなか、フランスは直接支配を行い、上部はフランス人が 司ったが、下部の行政実務はベトナム人に委ねました。しかし、このため仲介する通訳が必 要となり、1874年に通訳管制が敷かれ、この職務はほとんどフランス人とインド人 でかためられました。ベトナム人はわずかにキリスト教徒などが任命されたにすぎませんでした。 当初は反発も多かったが、徐々にベトナム人のなかにも対仏協力者が現れました。旧官僚 とノタブル層(地方支配者階級)です。そしてフランス化を図るための学校まで建設されました。 このフランス化政策によって輩出された知識層が、後にベトナムの特権階級 となりました。

 

ベトナム戦争略史・抗仏時代(1945〜1954年)
【年表】
1939年 第2次世界大戦起きる(〜45) インドシナ共産党第6回中央委員会
1940年 日本軍、北部仏印進駐 インドシナ共産党第7回中央委員会
      フランス、ナチスに降伏
1941年 太平洋戦争始まる(〜45) 日本南部仏印進駐 インドシナ共産党第8回
      中央委員会、ベトミン(ベトナム独立同盟)結成
1945年 日本軍、印仏処理、インドシナ三国の独立付与
      ベトナム8月革命、「ベトナム民主共和国」独立宣言
1946年 第1次インドシナ戦争本格化
1947年 東南アジア連盟結成 自由タイ政府、クーデタで崩壊 コミンフォルム
1949年 フランス傀儡ベトナム国建国 中華人民共和国建国
1951年 インドシナ共産党第2回大会(ベトナム労働党成立)
1954年 ディエンビエンフーの戦い
      ジュネーブ協定成立、第1次インドシナ戦争終結
      南北分断(北緯17度線)

【抗仏時代】
・ベトナム8月革命
ベトナムは、10世紀に中国からの自立を達成して以来、19世紀後半にフランスの植民地支配下にはいるまで、長い独立の歴史をもっていました。ベトナムの伝統国家の範囲が南のメコンデルタまで拡大するのは18世紀のことです。今のような南北に細長くのびた領土が、統一的な支配の下に置かれたのは、19世紀前半のグェン朝の時代になってからです。しかも、ベトナムを支配したフランスは、カンボジア、ラオスとともにインドシナという形でこの地域を支配しました。ベトナム人が集中して居住している地域はトンキン(北部)、アンナン(中部)、コーチシナ(南部)の3地域に分裂されました。結果、地図の上からベトナムという国家は消滅されました。植民地支配に抵抗したベトナム人の多くは、ベトナムの独立の回復を強く求めていましたが、ベトナム一国だけの再独立なのか、インドシナ各国との同時独立なのか、その運動の方向性には様々な難しさが含まれていました。

第二次世界大戦の末期、ベトナムは日本の占領下に置かれました。日本の敗戦と同時に植民地支配からの解放を求めるベトナムの人々は、ホー・チ・ミンとインドシナ共産党のもとに1941年に結成されていたベトミン(ベトナム独立同盟)に結集して蝶起をしました。このベトミンの8月革命は、それがきわめて大衆的な政治運動であり、ベトミンの武装勢力や共産党支配者だけでなく、それまで親日的な政治組織に参加していた人々や、あらゆる政治活動に加わっていなかったような人々をも広範に結集した点に大きな特徴がありました。そのために、共産党とベトミンの組織力には地域ごとに大きな相違がありましたが、8月革命の蝶起は、ハノイ・フエ・サイゴン3大都市をふくむベトナム全土で成功しました。ホー・チ・ミン氏が1945年9月2日の独立を宣言したベトナム民主共和国は全国政権であり、そのことがベトミンにきわめて大きな正統性を付与することになりました。

・フランスによる再植民地化
この『ベトナム民族』の独立と、『ベトナムの統一』を、国際社会が承認していれば、その後30年間にわたる戦争は発生しなかった思います。しかし残念ながら当時の国際社会にはその用意はありませんでした。特に旧植民地宗主国のフランスは、インドシナ植民地を放棄する気持ちはさらさら持っていませんでした。ベトナム、カンボジア、ラオスの独立勢力とフランスとの緊張は次第に高まりました。

1946年12月には、ベトナム民主共和国とフランスとの間の軍事対決が全面化して、第一次インドシナ戦争が本格化しました。フランスは、植民地統治時代のイメージでベトナムを見ており、8月革命を通じて形成された民主ベトナムの力を軽く見ていました。フランスの予測に反して現地の人々の抵抗は強力で、戦争は長期化しました。さらに、1949年10月に中華人民共和国が成立したことは、インドシナ戦争にも大きな影響を及ぼします。

隣接する支援者も得たベトナムの軍事的な力は急速に強化されました。フランスはこれに対して、アメリカに軍事的な支援をあおぎます。インドシナ戦争は東西冷戦構造の中の熱い戦争という性格を帯びるようになっていきます。アメリカからの支援を受けてもフランスは、優勢に立つことはできませんでした。共産党(1951年にベトナム労働党の改称)とベトミンは、人口の多数を占める農民たちからの強い協力支援体制を作りあげていました。1953年からは、さらなる強力動員態勢をつくるため、地主制を廃止して農民に土地を分配する土地革命に本格的に着手しました。農民たちは、「自分の土地」という具体的な成果目標ができたことによって、「民族の独立」を現実的な希望としました。そのことが闘いへの彼らの献身的な意識をより引き出したのでした。短時間で終わると思われていた植民地再征服戦争が長期化するにしたがいフランス国内の反戦世論も高まりを見せました。窮地に追い込まれたフランス政府は、戦局の打開をはかるために1953年末にベトナム北西のラオスとの国境に近いディエンビエンフーに強固な陣地を設置し、ここにベトナム軍主力をおびき寄せ、大打撃を与えようとしました。がしかし、これは逆にベトナム軍側の志気を高め、農民をはじめとする挙国一致の人海戦術でフランス軍を徹底的に打ちのめしました。1954年5月7日にディエンビエンフーは陥落し、ここにフランスのインドシナ軍事支配の望みは完全に打ち砕かれました。

 

第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)前夜(1954)

1954年7月21日、抗仏独立戦争(第一次インドシナ戦争)を勝利した独立同盟は旧宗主国フランスとのインドシナ休戦協定←【詳細】を調印した。 当初この会議は第一次インドシナ戦争の終結とベトナムの完全な民族自決を達成する目的で開催された。しかし既に介入の度合いを深めつつあったアメリカには共産主義指導層によるベトナムの独立を認めるわけにはいかなかった。 ちょうどこの時期は共産主義の国際的な浸透が始まっており資本主義陣営は危機感を深め、「ここで食い止めないと重大な結果を招く(ドミノ理論)」と当時は資本主義陣営(とりわけアメリカ)ではそう思われていた。アメリカ側から見れば「共産主義の横暴」なのである。当時よく喧伝されていた国際共産主義の陰謀など無かった事は後の歴史で証明されたが割を食ったのはベトナムであったように思われる。 会議でアメリカ(単独)によって作られたベトナム共和国(南ベトナム)とベトナム民主共和国(北ベトナム)の統一選挙の実施も行われる予定だったが、北側を代表したホー・チ・ミンに選挙では勝てないと認識していたアメリカと南ベトナム(バオ・ダイ政権)だけの拒否で実現を見なかった。 この時アメリカが民族国家ベトナムとホー・チ・ミンを認識できていたならば(少なくとも1950代までは可能だったと思われる)、後の20世紀最悪の戦争と呼ばれたベトナム戦争を回避出来えたのではないかと考えられる。
なぜなら回復が目指された「統一ベトナム」とは八月革命の熱狂を共有した空間、全てのベトナムに他ならなかったからである。

南ベトナムの政情不安と解放戦線結成期(1955-1960)

初期の南ベトナムの政情が不安定だった原因の一つが最初の大統領ゴ・ディン・ジェムの仏教徒への弾圧であった。当時のニュース映像・写真記録等でも抗議の焼身自殺をする僧侶の姿など残されている。 これはゴ・ディン・ジェム政権(サイゴン政府)のカトリック教徒への「特殊な優遇」が一因と言える。カトリック教徒が当時のベトナム人口一割程度だったにもかかわらずである。 加えてジェムの一族や「カンラオ」と呼ばれる側近のグループの腐敗が蔓延し、土地改革も「戦略村構想」に見られる通り土地に根づいた農民の感情を無視した(もしくは理解できなかった)政策で失敗を重ねた。1960年に入ると南ベトナム各地で暴動や武装蜂起←【関連・ベンチェ蜂起】が相次ぎ北ベトナムの対南政策に大きな影響を与えることになった。 同年、ベトナム労働党(1951年改称)拡大中央委員会においてホー・チ・ミン大統領の「南ベトナム人民を帝国主義から解放する」(十五号決議)という宣言を採択した。 それにより南ベトナムに派遣された第一書記レ・ズアンが南領内の反政府勢力と結び12月、南ベトナム解放民族戦線←【関連文】 ←【軍装】(議長グエン・フー・ト)がサイゴン北方の都市ビエンホアにて結成された。 その結成の経緯から見て初期の解放民族戦線は共産主義者の集団というものでは無かったように思われる。その後、南ベトナム解放民族戦線は抗米、反政府(サイゴン政府)運動に大きな役割を果たすことになった。

アメリカの直接介入と人民軍の南下(1961-1965)

農村部を中心に南領内でゲリラ活動を展開した解放戦線は着実に勢力を伸ばし、1963年1月2日ベトナム史に残るアブパクの戦い←【詳細】←【関連・アブパク戦勝記念メダル】において初めて近代兵器で武装された南政府軍に対し正面から戦いを挑み勝利した。 1963年11月にはついに南ベトナムでアメリカの黙認を得たクーデターが決行され大統領のゴ・ディン・ジェムと弟のニューは暗殺された。 1964年に入ると解放戦線はホーチミンルート(別名・おじさんの道)の増強に伴い北からの補給物資を徐々に得るようになり、対民衆政策に失敗し、政情不安定なサイゴン政府は瓦解寸前に追い込まれる。 主にホーチミンルートの建設には559偵察隊←【詳細】と言われる南部出身者主体の部隊が建設し、その支援に青年突撃隊が加わった。このホーチミンルートの建設はベトナム戦争の重要なポイントとなり、のちの戦いおいてアメリカ側はいかにホーチミンルートを切断するかが目標となった。 そして米軍の直接介入の口実となった「トンキン湾事件」が発生、1964年8月7日にはアメリカ議会は東南アジア決議(トンキン湾決議)を可決。 1965年、更に解放戦線は中部高原の米軍のプレイク・クイホン基地にも攻撃をかけ多数の航空機を破壊し米軍に出血を強いた。これに対し米軍は報復措置として部分的北爆を開始したが、この動きは逆に北ベトナム側を刺激し人民軍(正規軍)の南下を招く結果となった。
3月8日米軍海兵隊は中部の大都市ダナンへ上陸し直接介入、戦争は長期化することになる。

 

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